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徐 家匯は元々、蒲匯塘、肇嘉浜、李漎涇の3つの河川が合流する地点だった。明代の科学者・徐光啓はここに農園と別荘を構え、農業実験と著作に励んだ。その 後、徐氏一族がこの地に集住したため、清の康煕年間には徐家匯と呼ばれるようになった。1847年、カトリック江南伝教区はここにイエズス会総本部を設立 し、徐光啓やマテオ・リッチが始めた西洋の学術を中国に紹介し、中国の学術を西洋に伝える事業を受け継いでいった。これ以降、科学、技術、文化、教育、出 版、慈善、宗教に携わる団体が次々に創設された。20世紀初頭には、徐家匯はかなりの規模となり、文化の一大中心地となっていた。
徐家匯は上海特有の都市文化の特徴を備えた一般開放型の観光エリアである。主な見どころとしては、徐光啓の墓、天主堂、天文台、蔵書楼、旧徐匯公学、旧百代唱片公司、土山湾博物館、上海交通大学校史博物館、銭学森図書館、董浩雲水運博物館などがある。
元来は明末の科学者・徐光啓の墓地で、明の崇禎14年(1641年)に勅命により造営され、歴代の皇帝から保護を受けてきた。かつては南丹公園と呼 ばれ、後に徐光啓を記念して改称された。面積は1万3,200㎡。2003年に明代の墓制に即して牌坊(鳥居形の門)、墓道、塚が再建された。光啓公園は 今日では記念庭園となっており、北側は徐光啓の墓、西側は徐光啓記念館、東側はレジャースペースとなっており、徐光啓にゆかりのある碑廊や彫刻、遺構が趣 を添えている。園内の曲がりくねった小道、鬱蒼と生い茂る木々、魚たちが戯れる蓮池は、厳かな雰囲気を醸し出している。憩いの場としても良し、また先人の 偉業に思いを馳せてみるのも良いだろう。
明の崇禎7年(1634年)に勅令による葬儀が行われ、同14年(1641年)にこの地に埋葬された。全10室の墓室があり、徐光啓とその妻・呉 氏、および孫夫妻4組がそれぞれ埋葬されている。明代の墓制にのっとって造営されたこの墓は、前面に墓道があり、そこに石碑、人間や馬、虎、羊の石像、華 表(装飾用石柱)、牌坊などが配置されている。1903年、カトリック上海教区が墓道の前に大理石の十字架を立てた。その正面にはラテン語の碑文を刻み、 残りの3面には馬相伯が執筆した「徐文定公墓前十字記」が刻まれている。東側の碑廊には徐光啓の肖像画や手蹟、その事績を記した石刻12点が展示されてい る。1988年、国務院により「全国重点文物保護単位」に指定された。
館舎は明の弘治年間に建てられた「南春華堂」で、2003年に梅隴郷の梅隴鎮東から現在の場所に移転された。また、徐光啓の墓前にあった彫像も館内 に移され、こうして徐光啓記念館がオープンした。本館は旧時の邸宅特有の2段構えの玄関構造を持ち、照壁(目隠しの塀)、碑廊、厢房(母屋両脇の東西に向 かい合う部屋)、庁堂(広間)、裏庭などが明代の様式で配置されている。記念館の展示は、「徐光啓の生涯」「『農政全書』と『幾何原本』」「『崇禎暦書』 と『徐氏庖言』」「徐光啓と上海」の4つのコーナーに分かれている。所蔵品には土山湾画館が1913年に制作した徐光啓、マテオ・リッチ、アダム・シャー ル、フェルディナント・フェルビーストの水彩人物画がある。マテオ・リッチが作成した『坤輿万国全図』は、中国国内でも数少ない、南京博物館が所蔵する原 版の複製であり、中国に伝えられた世界地図としては最も早期のものである。
徐家匯天主堂は現在、カトリック上海教区の司教座聖堂であり、聖イグナチオ・デ・ロヨラを守護聖人としていることから、「聖イグナチオ大聖堂」とも 呼ばれる。清の光緒30年(1904年)、英国の建築家ダウドール(Dowdall)が設計し、同32年(1906年)にフランス系資本の上海建築公司に より建設着工され、宣統2年(1910年)10月22日に、双塔型・ゴシック様式の建築物として完成した。教会本館は石柱型木骨レンガ造で、建築平面は十 字型となっている。南北に向かい合う2つの鐘楼は、高さ57メートルで、尖頂の高さは31メートル。天に向かって高くそびえる2つの十字架は、上海西部の ランドマーク建築となっている。教会内には金山石に精巧な彫刻を施し、それを重ね上げた大柱が64本あり、さらにその1本1本が10本の小さな円柱から 成っている。本堂には3000人を収容し、同時に宗教活動に参加させることが可能で、かつては極東一の大教会であった。
徐家匯蔵書楼はイエズス会の修道士により清の道光27年(1847年)に開設された。1956年に徐家匯蔵書楼の漢籍や洋書の善本が上海図書館に編 入された。現在、徐家匯蔵書楼の蔵書は1949年以前に出版された外国語書籍・新聞雑誌が主体であり、また英国王立アジア協会図書館等の蔵書も受け入れ、 近年では「羅氏蔵書」(スウェーデンの蔵書家ウェンダール氏(中国名:羅聞達)の蔵書)も購入した。今やその充実ぶりは洋書・漢籍収蔵の中核施設と呼ぶに 相応しい。蔵書楼は中洋折衷の建築様式となっている。漢籍書庫とされた1階は寧波の天一閣の蔵書楼を模して建造され、経・史・子・集・叢の5ジャンルに分 類されていた。当時、漢籍の蔵書数は12万冊余りに上っていた。洋書庫とされた2階は、バチカン教皇庁図書館に倣った館内配置となっている。書棚は床面か ら天井まで続き、その中程に立体通路が設けられ、上り降りして書籍を取り出せるようになっている。洋書庫はイエズス会蔵書楼の原状をそのまま留めており、 15世紀以降に出版された各種西洋文献8万冊余りが保管されている。中でもシノロジーと神学の文献は非常に貴重である。